イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 1 バベル -②

 

小刻みに震える中指を膣内で受け止めながら、早苗は窓の外に目をやった。一刻も早く男のキスから顔を背けたかった。夕暮れ時の東京タワーが群青色のカーテンの脇から横たわっている。
「もうイクんじゃないの。ねえ、イクときはちゃんと言ってね。勝手にイクのはダメだから」
オレンジの空を眺めながら上の空とはこのことだ、と早苗は思った。背後から執拗に乳首を責められる。早苗は心の中で40秒、41秒、42秒と数字を唱えることにした。
「おっぱい、でっけーな。ときどきキスもしてね。そうすると、すぐイクからね」
乳首攻めのカウンティングは、やがて別の数字に変わっていた。ハリー・ウィンストンの指輪は800万円。カッシーナのテーブルは350万円。そんな数字を呪文のように唱えながら、早苗はひたすら地上40階のレジデンスから無機質な景色を眺め続ける。
「ねえ。そろそろイク? そろそろいいかな」
男の亀頭がぷっくりと膨らんだ気がした。
「うん……いいよ」
「いいぞ。よーし、正常位だ。一緒にイクぞ」
男は早苗の身体を乱暴に抱き寄せると、湿った息を耳元に吹きかけた――。

 

早苗と男の出会いは1年前に遡る。その頃、早苗は恵比寿の会員制交際クラブに登録した。愛人紹介所と言ったほうが早いかもしれない。交際クラブの事務所を訪れた日、早苗はスタジオで写真と動画撮影を行った末、「ブラッククラス」と宣告された。
「うちでは容姿や属性を総合的に判断し、4つのランクに振り分けるんですよ。君はなんていうか、ファッションは熟れた感じだし、黒髪はおじさん受けが良さそうなんで」
オーナーの面接は1時間ほどだったが、早苗は最上級クラスと判断された。
「プロフィールを書いてもらうけど、この仕事を始める理由は? まぁ、嘘でもいいんだよ。この業界の子は『将来留学したいので』っていうのが定番なんだけど。そう言えば清楚に思えるじゃない」
「そうなんですね。そうしたら、留学でお願いします」
「じゃあ、そういうことで話を合わせてね」
その5日後、交際クラブを通じて紹介されたのが、投資家の熊沢(くまざわ)だった。年齢は50代、住まいは白金。グランドハイアット1階のカフェで対面した熊沢は、薄毛の天然パーマで羊顔の優男だった。それが早苗には無害な印象で高評価だった。しかし、そんな早苗にとって予想外の出来事が起こった。初めてのお泊まりの日、熊沢は態度を豹変させたのだ。
「Eカップなんだね。すげーふわっふわしてるね。若くて巨乳って、最強だよね」
熊沢は六本木ヒルズクラブのガラス扉に映った早苗の身体を隅々まで眺めて言った。
早苗はガラス越しにみずからの身体を見て思った。こうして見ると、我ながらいい女に見える。ギンガムチェックのアンサンブルからはみ出したおっぱいはふっくらと形が良く、話すたびに柔らかく小刻みに揺れている。まるで違う生き物のよう。熊沢が言うように、やはり私は若くて魅力的な女なのだ。

 

ベッドに体育座りをした瞬間、上からボックスティッシュが降ってきた。
「玲子、これ」
続いて、頭上に一万円札の束が向けられる。厚さは1センチの半分くらい。熊沢は禿げ上がった頭を早苗の乳房に埋めた。
「朝まで寝ていいぞ。市場が始まる9時までは」
「うん」
熊沢が寝息を立てると、早苗はスマホに手を伸ばした。
ツイッターで何をつぶやこう。ばびろん玲子の言葉を待っていてくれるファンのために。そして、何より自分自身のために。

 

〈私のように大して綺麗でなくても、多少のユーモアとおっぱいがあればだいたいのお金持ちはついてきます。胸を揺らしながらふわふわと笑うのです。シンプルイズベストどす〉
〈正直な話、年収が1500万円を越えたあたりから、自分より年収が低いであろう男性は見渡してもいなくなる。コンビニ店員さんと宅配便の人くらい〉

 

翌朝8時、早苗は50万円の札束をエルメス・ベアンの長財布に入れると、用意してくれたタクシーに乗り込んだ。手のひらには、スマホがあった。

 

〈ハイヤーを使うことで得られるのは時間どす。ばびろんさんは今日もタイムイズマネー。電車は時間に余裕がある人の乗り物です〉
〈女性で、お金を稼ぐ人の条件。それは、とにかく柔らかいこと。頭、物腰、そしておっぱい〉
〈アメックス・センチュリオンのインビテーションは来たのに、楽天ブラックカードのインビテーションが来ないのはなぜかしら〉

 

自称ハイパーエリートニート。自己申告の年収は3000万円。早苗は満足だった。そんなツイートとともにニューオータニのナイトプールで撮影した水着姿をアップしたところ、フォロワーが1万人を越えたのだ。名実ともに日本一のキラキラ女子になったのかもしれないと思うと早苗は誇らしくなって、タクシーの後部座席で脚を組み直した。