イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 1 バベル -③

 

長崎県北部に位置する松浦市は、玄界灘(げんかいなだ)から伊万里(いまり)湾(わん)に面する風光明媚な漁師町だ。父は会社員、母は介護職をする共働きの家庭に生まれた早苗は、4人兄弟の長女だった。世帯年収500万円前後の中流家庭で経済的な不自由を感じたことはなかったが、幼い頃から「長女のあなたは特別なの」と言われて育った。小学校時代には弁論大会で優勝し、学校で表彰された。中学時代には教育委員会主催の講座で「児童虐待と子供の権利」について発表したところ、両親は手放しで喜び、それを近所に言いふらした。九州の国立大学の法学部を卒業後、地元の大企業に就職した頃には、娘の自慢ばかりする両親に嫌気が差し、連絡を遮断していた。

 

あれは社会人になる1年前。中学校時代の同窓会が地元で催されたときのことだった。早苗は住んでいた福岡から当時の彼氏から借りた赤いアルファロメオを走らせ、長崎まで出掛けていった
 

「これ何年前の? 旧型のアルファロメオって」

 

同級生がやっている鮨屋の駐車場に車を停めると、背後から声がする。振り返ると、声の主は学校一の美人、柏木(かしわぎ)玲子(れいこ)だった。中学時代から高校生と付き合い、卒業後は市内一のイケメン美容師とも恋仲になった恋多き女。中村アンのように茶髪を掻き揚げる仕草は当時のままだったが、5年ぶりに見ると一層派手さに磨きがかかり、バラエティー番組で見たことがある東京・歌舞伎町の人気キャバ嬢のようだった。仄かに膨らんだ唇、整ったアイライン、鎖骨が窪んだ艶の良いデコルテ。早苗は突如現れた造形物を前に、一寸の隙も見出せないことに絶望を抱いた。

 

「ねー、何その睫毛。早苗ってさ、中学時代から何も変わってないよね」
「玲子、相変わらず可愛いよね」

 

早苗は精一杯の言葉を吐き出したが、玲子の言葉は一向に頭に入ってこない。洗練されたそれに比べて、自分自身の見窄(みすぼ)らしさといったら何だ。

 

「早苗って、近くで見るとさ――」

「何なの」

 

みるみる顔面に血が上ってくるのがわかる。アルファロメオを褒めてくれると思っていた自分自身は、なんと愚かな女なのか。玲子に比べたら、自分は中途半端でみっともない下等生物に違いない。早苗は同窓会のさなか、ずっと上の空だった。

 

その翌週、会社に辞表を出し、親にも告げずに上京した。私は、ばびろん玲子として生きていく。そう思った瞬間、目の前がパッと明るくなった気がした。