イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 1 バベル -⑤

 

〈今年の誕生日プレゼントは、会社と車とドメインでした〉

 

15年10月のある日の早朝、早苗は鳴り響くインターフォンの音で目を覚ました。インターホンのモニター画面には、スーツを着た中年男2人と1人の女性が立っている。

 

「京都から来ました警察の者です。松島早苗さんに事情を聞きたい件がありまして。ドア、空けてくれへんか」

 

その日、早苗は京都府警に逮捕状を提示され、身柄を移送された。15年5月、ネットオークションでカルティエのブレスレットの偽物を5万円ほどで中国から仕入れ、京都市の女性に65万円で販売。購入した女性が、商品が粗雑であることを不審に思い、警察に被害相談をして発覚したのだ。担当した女性刑事熊沢(くまざわ)が早苗に奇異の目を向けた。

 

「このツイッターはどこまでホントの出来事なんや。こんなこと書き込むからマスコミが面白おかしく報じるやん? なぁ、ばびろん玲子はあんたなん?」
「ばびろん玲子は――私自身です」
「じゃあ、本当だって言うの」

 

早苗は一瞬、その質問に面食らった。だが、数秒の間を呑み込むと、それが自分にとっていつか質問して欲しい問いだったかもしれないと思い直した。
 

「だって、誰にだっているじゃないですか」
「何が?」
「誰の心にだって、小さなばびろん玲子がいるでしょう」

 

女性刑事は間を置かず「わざわざ?」と反芻し、ぶっきらぼうに早苗に宣告した。

 

「わざわざこんなことをね……。あんたを見ているとね、コンプレックスの塊だって思えちゃうから」

 

早苗はその言葉を無表情で聞きながら、女性刑事にセックスの匂いを感じた。逞しい腕と細い指。きっとベッドの上では男に媚びを売るのだろう。厚ぼったい唇が妙に卑猥に見えた。

 

その日の夜、国選弁護人が早苗に官物のショーツを差し入れた。深夜、急に下着の底が冷たくなった。中指でなぞると、薄暗闇に鮮やかな鮮血が浮かんだ。早苗は想起した。学生のときに『バビロン捕囚』や『バベルの塔』聖書に『大いなるバビロン』という娼婦が出てくるのを目にしたこと。そして、当時から何となく、世紀末や隠遁を彷彿とさせる雰囲気に惹かれたことを。
京都地検は翌月、早苗を処分保留で釈放した。その日の早朝、京都の空は見事な橙色に染まっていた。1ヵ月ぶりにスマホを開くと、こんな文字を書き込むのだった。
 

〈ばびろん玲子という港区在住女性の寄せ集めのような架空の人物がいるらしいのですが、彼女はなかなかです〉