イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 2 キャリア -②

 

光子にとって、御手洗は雲の上の存在に違いなかった。京都大学法学部を卒業後、国家公務員一種試験に合格。晴れて警察庁に入庁すると、同期20人の中でも出世頭と持て囃(はや)された。地方の県警の知能犯捜査を統括する捜査2課長を20代後半で経験し、40代前半で出世の登竜門と言われる警視庁広報課長に配属されてからは、有力ポストばかりを渡り歩くことになった。警部から警視、警視正から警視長へ。制服の肩に施される星の数がみるみる増えていった。小学生になる双子の息子と妻を東京に置き、単身関西にやってきたのは約1年前のことだ。近畿管区警察局に異動になった御手洗が京都府警本部各部署の選りすぐりの若手警察官を集めた懇親会の席で、たまたま言葉を交わしたのが光子だった。

 

キャリア官僚を前にして萎縮する若手が多い中で、真っ直ぐに目を見据え、こう語りかけてきたのだ。

 

「御手洗さん、東京に戻ってしまっても京都をよろしくお願いします」

 

 光子の人懐っこい笑顔に御手洗が応じる。

 

「生安ということは、君は街の隅々まで詳しいんだな」
「はい、日々頑張っています」
「今度、美味しい店に連れて行ってくれよ。四条あたりで若者が集まる店を視察したいんだ」
「ホンマですか。ほんなら、ご案内します」

 

「ねぇ。この前、変な女に会ったのよ。まぁ、うちがパクったホシなんやけど」

 

御手洗がLINEを交換するよう求めると、光子は一瞬目を大きく開いた。直後、御手洗は彼女が科(しな)を作ったように見えた。彼女にとって、目の前にいる俺は殿上人に違いない。

 

御手洗は、つくづく警察組織は面白いと思った。天と地がひっくり返ったとしてもノンキャリアは警察庁長官や警視総監にはなれない。御手洗のようなキャリアと光子のようなノンキャリアでは、出世レースの道中で身を任せる乗り物の性能が違うのだ。何より一方は国家公務員、一方は地方公務員なのである。俺のようなキャリア官僚は、ひたすら真っすぐ歩けばいいのだ。途中で転ばぬよう、信頼の置ける家臣を左右に携えて。

 

思い起こせば、最初に光子を抱くことになったとき、御手洗の脳内を支配していたのは3割の優越感と7割の興味だった。優越感とは警察官の階級の違いに依るものだったが、ノンキャリアの女はベッドの上でどのような顔をするのかという純粋無垢な下心のほうが遥かに大きかった。だが、そんな御手洗でも想定外だったことがある。その興味はノンキャリ刑事にも好かれている自分という歪んだ自意識に変容し、幾度となく光子を抱いているうちに、やがて跡形もなく消えていったのだ。結局、この女だって俺の階級に惹かれて関係を持ったに違いない。御手洗は、そう思うことにした。

 

その日――彼女を抱いた最後の日――御手洗は丸顔の光子の顔をまじまじと眺めた。ベッドに寝転び、ショートカットの彼女を下から見上げると、二重あごに愛嬌を感じたが、一重で切れ長の目の奥には遊びがないと思った。

 

光子が御手洗を見下ろしていう。

 

「そのホシがね、こう言うのよ。なりたい自分になれたから幸せだったって。それって虚しくならへんのかなって言ったんやけど。でも、あの子の目を見ていると、なんか全部を見透かされているみたいでちょっと怖かったな」

 

深夜1時、御手洗はタクシーに乗り込み、警察官舎に向かった。その道中、ばびろん玲子の名前を反芻(はんすう)した。誰にでも小さなばびろん玲子がいる、だって。そんな光子には、なりたい自分があるのだろうか。昼間は年上の上司に物申し、取調室で被疑者を怒鳴りつけ、夜は中年の警察官僚と不倫交際を続ける光子に、いったい何の希望があるというのか。そこには、やはり小さなばびろん玲子が巣食っているというのか。そうだとしたら〝あの女〟はどうなのだろう。俺を狂わせた〝あの女〟は――。