イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 2 キャリア -③

 

四条大橋でタクシーを降りると、あたりには霧雨が降っていた。御手洗は花街・宮川町を目指した。11月の京都の気温は10度を切っているが、ワイシャツと背中が汗でしっとりと張り付く。京都の5花街の中でも屈指の美観と称される宮川町は、御手洗の学生時代には縁遠い場所だった。警察庁に入庁が決まると、一度警察OBに連れて行ってもらったが、塵一つない店内は酷く居心地が悪かった。芸姑たちが「金のない客だ」と言いたげに、そのOBを軽んじているのが分かったからだ。

 

鴨川の水面に夕日が沈む頃、旧赤線の趣を残した日本家屋が立ち並ぶ一角に、着物姿の赤城静子が柳のように立っていた。御手洗は彼女の姿を認めると、背後から声を掛けた。

 

「お久しぶり。赤城さん、着物がとても似合ってるよ」

 

用意しておいた科白だった。静子はまるで声を掛けられると分かっていたかのように微笑を浮かべ、紫の和傘を背中でくるくると回した。御手洗は正視できなかった。無邪気さを湛えた柔和な表情は見る者を油断させるが、松の枝のようにピンと伸びた四肢には自信が漲り、茶髪の富士額はすべてを悟っているかのように狭く整っている。俺の人生で、こんな雰囲気を身に纏った女とは一度も会ったことがない。

 

静子はさり気なく御手洗の腕を取る。御手洗はその自然な仕草にホッとした。静子は一軒のお茶屋の前で一呼吸置くと、慣れた様子で引き戸に手をかけた。

 

「ここはお茶屋なんだけど、バーが隣接されているの。ここの女将さん、私がお世話になっているお取引先なのよ。寄っていきましょう」

 

お茶屋の女将は、静子を「赤城先生」と呼ぶ。客であるはずなのに場を仕切っているのは相変わらず静子だ。いったい、この女は何者なのだ。

 

御手洗が静子と出会ったのは約1ヵ月前。東京神田で催された民間企業主催の研修会だった。警察幹部として招かれ、元広報課長としての経験に基づき、企業の危機管理についてひとしきりスピーチした。会場には100人ほどの参加者がいたが、最後列に一際目立つ女がいた。年の頃なら30代前半。花柄のワンピースを身にまとい、赤いキャペリンハットを被る丸眼鏡の女は、スーツ姿の上場企業重役ばかりが揃う会場の中では明らかな異物だった。懇親会の席で彼女はすたすたと御手洗に近づいてきて「ご挨拶をさせてください」と微笑んだ。御手洗が名刺を差し出すと、彼女は抑揚の効いた低い声で囁いた。

 

「アカギエージェンシーの赤城静子といいます。ごめんなさい、名刺は持ち合わせていなくて。御手洗さん、こちらの名刺にご連絡してもよろしいでしょうか」

 

名刺もないのに、よく話しかけてきたものだ。御手洗はその度胸は警察官僚にはない、と素直に感服した。

 

時刻は23時を過ぎている。白化粧を施した舞妓が白木のカウンターの中で忙しなくマドラーを回している。御手洗はハイボールを何杯飲んだだろうと思い返した。客たちの談笑が止まぬ中、静子が首を傾げ、おもむろに左耳を近づけてきた。そのとき、御手洗は初めて彼女の首筋から女の匂いを感じた。