イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 2 キャリア -④

 

羽毛布団に深く埋もれた左半身に温かいものが滑り込んできた。御手洗は一瞬、いま自分がいる場所を理解できずにいた。暗闇の中だが、すぐに女の肌だと分かった。御手洗は瞳をきつく閉じ、意識を集中させた。脚、腹、胸に滑らかな女の指先が這っていく。静子の舌が首筋を伝ったとき、得も言われぬ快楽が全身を支配した。御手洗は静子の後頭部に手をかけ引き寄せると、夢中で舌を絡めた。お茶屋で漂った女の芳香が蘇ってきた。

 

行為が終わると、静子は下着姿で部屋の明かりを付けた。ザ・リッツ・カールトン京都は静子の定宿らしく、御手洗は昨夜遅くに彼女と一緒にチェックインしたことを思い出した。昨晩アップにしていた髪の毛はいつの間にか解かれ、腰上までのウェーブがかった髪の隙間から真っ白い肩甲骨が見える。御手洗は世の中にこんな成熟した大人の女がいるのか、と夢見心地だった。ふと光子の汗ばんだ肢体が脳裏に浮かんだが、途端にみすぼらしい哀れな女に思えてきて、その映像を必死に打ち消した。

 

「貴明さん。さっきの話だけど、あれもこれも頑張ってくれるのよね」

 

静子が布団に擦り寄りながらいう。

 

「あれもこれもって」と御手洗。
「わかってるじゃない。あなたは家に帰れば良き父親。会社に行けば、良き上司。そして、私の前では良き恋人になってくれるのかしら」
御手洗は、その言葉に舞い上がった。

 

静子と関係を結んでからというもの、見るものすべてが目新しかった。女性遍歴を遡れば、警察庁入庁後に初めて付き合った女性が今の妻だった。静子は、妻より一回り以上も若い。にもかかわらず、行く先々は一流処ばかりだった。
翌年3月、御手洗は4年ぶりに東京桜田門に戻ることになり、それからというもの静子と頻繁に逢瀬を重ねるようになっていった。トゥールダルジャンや京味は卒倒するほど高額な会計だったが、静子は「いいのよ。あなたといる時間が貴重なんだから」と言い、トイレに立ったついでに会計を済ませていた。気がつけば、御手洗は静子の住む愛宕グリーンヒルズの最上階で過ごす毎日になっていた。
ある日、六本木のバーのカウンターで静子とグラスを交わしていると、御手洗は背後から肩を叩かれた。

 

「おい、御手洗ちゃん」

 

3期上の先輩、家鋪(やしき)大助(だいすけ)だった。東大法学部卒で出世は早かったが、警察庁一の遊び人を自任し、警察組織から疎まれている男。銀座のクラブに造詣が深く、スポンサーとともに店を訪れては我が物顔でホステスを侍らかす日常を送っていたが、御手洗はそんな先輩に悪い感情を抱いてはいなかった。

 

「御手洗よぉ。いい女連れて何してるんだ。おい、上に言いつけるぞ」

 

御手洗は席を立つと、家鋪と握手を交わし、レストルームの前に移動した。

 

「先輩、何してるんですか。いまはどちらの部署でしたっけ。今日はこれから銀座ですか?」
 と、御手洗が応酬する。

 

「関東管区警察局。今日は埼玉の田舎から遥々来たんだ。それより、おい。あの女よぉ、男とやりまくってるぞ。お前、女には気をつけろよなぁ」

 

浅黒い顔にオールバック。絵に描いたような警察官だが、家鋪はそれをむしろひけらかすところがある。携帯電話の着信音は「踊る大捜査線」のテーマ曲。「室井慎次管理官のモデルは俺だから」が口癖の男だ。

 

「どういうことですか。でも、先輩に言われたくないっすよ」
御手洗は苦笑交じりにいう。

 

「俺さ、福岡でマル暴やっていた頃あるだろ。わかるんだよな。あまり近づくなって。見るからに怪しいじゃねえか。あの女、たしかに綺麗だけどさぁ」
「危ない女ってことですか」
「どこかの社長の愛人か何かだろ? なんか見たことあるんだよなぁ」

 

トイレから出てきた天然パーマらしき五十男が家鋪の姿を一瞥し、つかつかと近づいてくる。

 

「家鋪ちゃん。この方、お友達なの?」
 家鋪が満面の笑みで御手洗を指さしていう。
「これな、会社の後輩の御手洗っていうの。この間、京都から東京に戻ってきて、今たまたま会ったんだ。でも、今日はオネーちゃんと一緒だから銀座には連れていけねえけどな」

 

狐目の男は御手洗にお辞儀をすると、ジャケットから名刺入れを取り出した。

 

「熊沢といいます。投資家といったら聞こえが良いですが、貧乏暇なしで色々やっておりまして。家鋪ちゃんとは銀座で知り合って仲良くしていただいていて」

 

女子トイレに向かう静子の姿が見える。暇を持て余したのだろう。彼女の姿を目ざとく見つけた家鋪は悪戯っぽく「あれ、こいつの女だってよ」と熊沢に囁いた。熊沢は静子を爪先から頭上までひとしきり舐めるように見つめると「ふっ」と鼻を鳴らした。

 

家鋪が突然警察庁を去ったのは、それから約5ヵ月が経った頃だった。暴力団関係者から数千万円の借り入れを行い、金銭トラブルに発展し、懲戒免職処分が下ったのだ。

 

「この暴力団関係者って、有名な人よね。熊沢っていう人って聞いたわ」
 静子がベッドで寝転びながらスマホの画面を見せてくる。
「熊沢一人(かずと) 河童(かっぱ)一家(いっか)直参(じきさん)」とある。
あの日、家鋪に紹介され、名刺を受け取った人物だった。御手洗は広報発表により家鋪が退職したことは知っていたが、それ以上の情報を持ち合わせていなかった自分自身に愕然とした。しかし、なぜ静子がそのことを知っているのだろう。

 

社会人デビューの御手洗にとって、家鋪は憧れていた先輩だった。何度か銀座に連れていってもらったことがあるが、行く先々で「ここは俺の店だから」と言い、得意のマジックで場を盛り上げていた。だが、そんな家鋪だって初体験は初赴任先の山形県で知り合った豪農の娘だったという。それからお互いに結婚し、間もなく子供をもうけた。お互いに家庭を顧みるタイプではなかったが、競い合うようにして出世街道を駆け上がった。
その家鋪が、道半ばで倒れた。

 

御手洗は思った。あと10年経てば、俺だって日本の治安を司る警察トップの芽も見えてくる。退官後に天下り先を渡り歩けば、そのたびに5000万円近い退職金が手に入るだろう。一部上場企業の社外取締役に引き抜かれるのも良い。ゆくゆくは危機管理学部の教授職か。いや、マンモス校の理事長という名誉職に抜擢されるかもしれない。だが、いま俺がやっていることと言えば、権力の中枢とは名ばかりのルーチンワークに過ぎない。午前中は警視庁の道場で剣道の練習を行い、午後はいくつかの決算資料に判子を押す。大都市の治安を揺るがす機密情報に接するわけでもない。記者クラブ所属の社会部記者から〝キャリア詣り〟の接待を受けることがあるが、彼らのほうが警察内部の情報に精通していると思えるときがある。いったい警察という組織は、誰が動かしているのか。トップに立って初めて、色鮮やかな景色が見えてくるということなのか。

 

この頃、静子は家を空けることが多くなっていった。御手洗が勤務を終え、夕方6時にグリーンヒルズに到着すると、静子は商談、会食、接待という理由を告げ、そそくさと家を出ていくのだ。その間、御手洗は有り余る時間をボーッとしながら過ごし、静子が夜中に戻ってくるなり毎晩のように激しく抱いた。
ある日の行為後、御手洗は腕枕を解き、静子に言葉を投げかけた。

 

「君は自由でいいな。俺はそういう世界とは無縁だから」

 

すると静子は背中を向けた。

 

「今からでも間に合うんじゃないかしら――」
「どういうことだ。俺は警察官僚なんだ」

 

静子は答えなかった。
いつしか御手洗は彼女に対し、嫉妬に近い感情を持つようになっていた。