イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 3 チェリーブロッサム -①

 

桐谷(きりたに)未有(みゆう)は自分の身体に覆い被さる男に気づかれないよう横目でタイマーを盗み見た。残り時間は8分弱――時刻は22時52分。床上50センチの簡易ベッドの脇に置いた携帯電話からショートメールの着信音が鳴った気がした。意識的に音量を上げていた喘ぎ声を抑え気味にすると、確かにチーンという間抜けな着信音が聞こえた。昨夜はよく寝られたし、まさか幻聴ではないだろう。彼からのメッセージが最低2通は届いていると思うと、途端に演技にも精が出る。未有は一際大きな喘ぎ声をあげ、これ見よがしに身体を海老反りにしてみせた。男の腰の動きが速くなり、やがて空気が抜けた浮き輪のように徐々に身体を縮ませた。
夕方5時から夜11時までの6時間出勤。30分コースのフリー客が5本、1時間コースの指名客が1本で給料は4万2千円。未有は店長から封筒に入った札束を受け取ると、性感ヘルス「プチキャット」が入居する風俗ビルを一目散に駆け下りた。

 

ハイヒールがカランカランと小気味良く音を立てる。猥雑なネオンが通りすがりの黒人たちの奥歯を照らす。すれ違いざまに甘く尖った匂いが漂ってくる。早速携帯の画面を開くと、案の定、計2通の新着メールがあった。

 

〈ミューちゃん、今日来れん? 来てくれたら泊まれるよ! 祝オール♡〉
〈早めに返事ちょーだい。VIP押さえとくよ♡〉

 

未有は道玄坂小路に繋がる石階段を跳ねるように下った。ショートメールの送信元は一ノ瀬(いちのせ)龍彦(たつひこ)。半年前、歌舞伎町のさくら通りでキャッチしてきた25歳のホストである。有名店「歌舞伎町ヨーデル」の1部営業のナンバー1で、肩書は「支配人」。出会った頃、未有は龍彦を店で一番偉いオーナーとばかり思っていたが、実際は違ったようだ。一度店に遊びに行くと「支配人」「店長」「専務」など多種多様な肩書の名刺が山積みになる。龍彦によると、それらはひとりひとりに付加価値を与えるためだけの代物なのだという。外見は黒髪スーツのちょいワルサラリーマン風。ウルフヘア全盛のホスト業界にあって正統派のホストは彼以外いなかった。未有はそんな龍彦の飾らない部分が好きだった。

 

その日、店内にはシャンパンコールが鳴り響いていた。

 

「ねぇ、あの女って今日は来てるの?」と未有。

 

龍彦はバツが悪そうに頷く。

 

「あぁ。さっきちょっと来てくれたかな」
「じゃあ、もう帰ったの?」
「えっと、まだいるんじゃないかな。ごめん、ちょっと見てくる」

 

龍彦が席を立とうとしたとき、後輩のホストが彼に耳打ちした。その直後、龍彦は驚いたような表情を浮かべ、すぐに目尻を下げた。
「ミューちゃん、ちょっと行ってくるわ」

 

悪い予感は当たった。VIPルームにモエ・エ・シャンドンのシャンパンタワーが作られ、そのうちシャンパンコールが鳴り響いた。未有は一瞬にして奈落の底に突き落とされた気分になった。きっと、あの女が龍彦の気を引くために20本のシャンパンを入れたのだ。会計はざっと100万円か……。未有は〈もういいよ。じゃあね〉と龍彦にショートメールを送り、3万円をテーブルに置いた。もう龍彦の顔なんて見たくない。
そうだよね。そんなの当たり前だよ。きっとシャンパンタワーのお礼で朝まであの女と過ごすのよね。そんな未有の気持ちを察したかのように龍彦から「ごめん。泊まりは無理だわ。ミューちゃん、また今度な!」というメールが届いた。

 

柏木(かしわぎ)玲子(れいこ)――。龍彦は「あいつとは別れたんだ」と言うけれど、相変わらず店にやってきて龍彦を指名し、月100万円以上は使っていることを未有は知っていた。龍彦が言うには、彼女は地元長崎で離婚し、シングルマザーとして単身東京にやってきて風俗で生計を立てているという。未有は同じ境遇に親近感を抱いたが、直接話したことは一度もなかった。いつもVIPルームを陣取り、長く豊かな髪を掻き上げているイメージ。あの姿を見ると、未有はいつも嫉妬にかられる。身長は自分より10センチ以上も高く、惚れ惚れするくらいの9頭身。顔は男の人の手のひらくらいの大きさで、メリハリのある整った目鼻立ちはギャルメイクの見本のようだった。それに比べて、あたしはどうだ。身長150センチの幼児体型。ロリコン趣味のおじさんには受けが良いけれど、同世代のホストになんてモテるわけがないのだ。

 

深夜、未有はヴェラハイツ道玄坂に辿り着くと、ハイヒールに付着した泥をエントランスの赤レンガに擦り付けた。部屋の前に歩を進め、かすかにドアを開ける。饐(す)えた臭気を伴った温風が顔を撫でた。前方の扉まで踏み場もないほど散乱しているカップラーメンやコンビニ弁当の空き容器には、夥(おびただ)しい数の小蠅が旋回しているのが見える。その蠅すらも異臭の中で手足を動かすのを躊躇(ためら)っているかのようだ。すべての窓が密封され、空気の流れが遮断された室内で、一筋の太陽光が一畳半ほどの床を照らしていた。澱んだ空気を突き通す、見たこともない透き通った光だった。
未有はリビングの隅に置かれている背丈の低い冷蔵庫の前に2つの物体を見た。双子の姉(きょう)弟(だい)、桜花(おうか)と桜(おう)太(た)。涙の跡が黒く付着した頬を擦り合わせ、音もなく抱き合って寝入っている。未有はふたりを抱き寄せ、頬を擦り合わせた。

 

あたしには可愛い2人の子供がいる。生を享(う)けたのは3年前の春。予定日が春だったこともあり、名前に「桜」の文字を使い、「桜のようにみんなから愛されてほしい」という願いを込めた。長女の桜花は男の子よりヤンチャだった。長男の桜太はそんなお姉ちゃんについて回る甘えん坊さん。あたしはいつだって、この子たちの味方なのだ。さっきまで淀んでいた気持ちが胸の底で溶けていくのがわかった。2人は示し合わせたかのように瞳を開くと、大声をあげて泣き始めた。未有は「愛してるよ。大丈夫だよ」と呪文のように唱え、2人の口の中にチョコレートを放り投げた。