イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 3 チェリーブロッサム -⑤

 

巨大な鼻が駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)のように隆起し、その先端から無色透明の水滴が50センチ四方の水槽の水面に滴り落ちている。鼻の左右には薄(すすき)の穂のような触角があり、メトロノームのように時を刻んでいる。

 

「いいかしら。これが噂のグンニーバよ」

 

赤城静子が水槽を指差していうと、玲子は満面の笑みでそれに応えた。

 

「私、飼いたかったんですよ。噂には聞いていたんですけど、こんなに可愛いんですね」

 

その隣で未有はその生物から目を逸らし、興奮冷めやらぬ様子の玲子に尋ねた。

 

「ねぇ、グンニーバって何なの?」
「未有、ホントに知らないの? いま流行ってるじゃん。ねぇ見て。凄いよ。脚も生えてるじゃん」

 

その生物はのっそりと動き出し、真っ赤な口中を露(あら)わにして欠伸(あくび)をしている。その口元は鰻の頭部のように鋭利で、やおら笑ったように口角を上げる。未有は世の中で自分だけがこの不気味な生物の名前を知らないのかもしれないと思い、心底不安になった。
グンニーバ――25年間の人生で間違いなく一度も聞いたことがない名前だった。

 

「今日は涙袋が膨らんでるわね。今日はみんなが来てくれたから機嫌がいいみたい。うん、とっても可愛いわね」

 

静子が愛おしそうに水槽に目を向ける。そして、半透明のタッパーから赤身の肉片を取り出し、その水槽に投げ入れた。

 

「あなたたちに言いたいのは――」

 

静子が玲子に目線を合わせ、言葉を続ける。

 

「グンニーバを立派に育てなさいということ。それと、もうひとつ言っていいかしら」

 

玲子が緊張の面持ちで身を乗り出す。

 

「グンニーバを立派に育て上げることができたら、私と一緒に新たな時代の幕開けを見届けない?」
「どういうことですか」と玲子。
「世界の終わりと始まりを同時に経験するの。あなたたちだったら出来るわ」

 

 グンニーバは恨めしそうに室内を睥睨(へいげい)し、肉片を一気に飲み込んだ。未有は、この得体の知れない生物と一緒に過ごす毎日を想像し得なかったが、玲子は今にも感動で泣き出さんばかりの表情でグンニーバを見つめ、やがて静子の手のひらを両手で握った。
「会長、こんな素敵なプレゼントをありがとうございます」
「祥太郎にもよろしく言っておいてくれるかしら。いつでも遊びに来なさいって」

玲子がヴェラハイツ道玄坂の階下の部屋に引っ越したのは、その1週間後のことだった。
未有は桜花と桜太に食事を与え、寝かしつけた後、昼頃に玲子の自宅に出向く日々を送った。部屋の中央にグンニーバを入れた水槽を設置した玲子は、水槽に七五三(しめ)縄(なわ)を巻き付け、まるで絶対神のように奉った。肉のハナマサで大量に買い込んだ肉片を水槽にポトンと落とし、二礼二拍手一礼。それが毎日の儀式だった。

 

「ねぇ、未有。最近さぁ、〝ヨーデル協定〟なんてどうでも良くなっちゃって。私、もう店には行かないし」

 

玲子がいう。すでに祥太郎がホストを辞めたことは龍彦から聞いていた。

 

「私、ここでグンニーバと祥太郎と3人で生活することにした」

 

未有が間を置かずにいう。

 

「それで『プチキャット』はどうするの?」
「まぁ適当に週3回くらい入っていれば月40万円は行くから生活はできるっしょ」

 

玲子を失った龍彦の売上は落ち込み、その負担はおのずと未有にのしかかった。龍彦を独り占めしている快感に酔いしれた未有は、桜花と桜太を家に置き、朝方まで歌舞伎町で飲み歩く日が多くなっていった。

〈今日私、予備校に行くんだ。公認会計士の勉強してるからさ。昼間、グンニーバを見ていてくれない?〉

未有が玲子からのLINEで起こされたのは、豪雨の日の朝方9時のことだった。昼頃、未有が玲子の部屋を訪れると、その部屋の中央にはグンニーバが赤い舌をだらしなく垂らし、牙を向けていた。幾分大きくなったグンニーバは、さらに醜さを増しているように思えた。その口先は卑猥な亀頭のように恐ろしく腫れ上がり、小さな目は猜疑心の塊のように乾いている。なぜ玲子はこんな化物を後生大事に育てているのかしら。しかも、こんなものが流行っているなんて世の中どうかしているではないか。未有は冷蔵庫からタッパーを取り出すと、肉片を水槽に放り投げた。まるで忌々しい過去を破棄するかのように。

 

「ちょっと待って。ミューちゃん、久しぶりじゃん」

 

背後のドアが開き、ドン・キホーテの買い物袋をぶら下げた祥太郎が立っていた。あのときと変わらぬホストファッションに身を包み、人懐っこい笑顔を向けている。

 

「玲子からグンニーバの世話を頼まれたんだよね。こいつ、マジで日に日に愛嬌が出てきて可愛いくて仕方ないんよ」

 

そう言うと、祥太郎はタッパーを未有から奪うと、肉片を2つ3つと水槽に落とした。グンニーバは口角を上げ、身を翻してそれらに飛びついている。

 

「これが最高なんだよなぁ。みんなに見せてるんだけど全員に羨ましがられるよ」

 

未有は話題を変えたかった。

 

「ねぇ、祥太郎くん。ホントに玲子と付き合ってるんだね」
「まぁ、そんなにお互い真剣じゃないけど、一緒に住んでるだけな」
「そう言えばさ、玲子の子供はどこなの?」
「だってさぁ、子供ってうざくない? 一緒に住むことになってからさ、あいつの実家に帰したよね」

 

子供よりグンニーバのほうが可愛いというのか。祥太郎は冷蔵庫から缶ビールを2本取り出し、1本を未有に手渡した。

 

「乾杯しよや。久しぶりにコールやっちゃうか」
「え、今から飲むの?」
「うん、こっちにおいで。一番いい席を用意したから」

 

リビングのソファベッドに座った祥太郎はそう言うと、自分の膝を指さした。目の前には、グンニーバが腹を膨らませ、水槽の中を周回している。未有が躊躇していると、祥太郎は彼女の手を握り、耳元で囁いた。

 

「龍彦のこと、今でも好きなの? それなら俺でも良くね?」

 

乳房の上にそっと置かれた祥太郎の細長い指を見たとき、未有は心を抉られたような錯覚に陥った。西の空を見ると、グンニーバの頭上から煮え滾(たぎ)った斜陽が沈んでゆく。未有は、男の逞しい太腿の筋肉のような色だと思った。