イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

夜枕の絵本 Season 4 リーダーズ ①

 

社長室のドアを開けると、虎と羊の取っ組み合いを劇画タッチで描いた淡色のトランクスが目に入ってきた。渋谷駅前の高層ビル35階の1フロアである社長室からは、東京都下360度の景色が一望できる。

 

「ここはねえ、出世のモスクなんよね。僕の仲間たちはここに入居してからというもの、みんな上場しちゃったのよ」

 

電動髭剃り機を頬に当て、下着一丁で身支度を整えながら権堂(ごんどう)実(みのる)が言う。「会社経営者は羊の顔を被った虎であるべき」という説法を何度聞いたことか。

 

「ねえ、社長さぁ」

 

柏木玲子は、思わずぶっきらぼうな声色を出した。

 

「なんだ、君は」
「今日のイベント、ゲン兄が来るんでしょ? 何か手土産でも買っておいたほうがいいんじゃないの。手ぶらで帰らせるのも悪いじゃない」

 

権堂はワイシャツに腕を通すと、2度3度と首を回して息を吐いた。歪んだ円錐形をした大胸筋から焦げ茶色の乳頭が垂れている。ベルトにのった腹回りの肉が多少落ちているのは、最近始めた深夜のフィットネス通いの賜物か。

 

「手土産なんて下らないこと言ってるんじゃないよ、ホントに。ゲン兄は時間が好きなんだ。何よりも時間、時間、圧倒的な時間! 僕といる時間が何よりも大好物なのよ。君はさぁ、毎日毎日まるで秘書みたいなこと言うなよ。まったくもう」

 

玲子は嘆息しながらいう。

 

「私は社長に給料をもらっている秘書の身。このくだり、今日5回目ですけど」
「なんだよ、クソめんどくせー女。ホント理屈っぽいのなぁ。人は理屈で動かないの。人はパッションで動くのよ」

 

権堂は白目になって顎を突き上げると、デオドラントスプレーを両腋に振りかける。ベルトを締めるとき、ブリッと放屁をカマしたが、まるで何事もなかったかのように「玲子、おいで」と手招きした。権堂が「君」ではなく「玲子」と呼び捨てにするのは、決まって唇を求めてくるときだ。玲子がストライプのジャケットを手にして近づくと、案の定、彼は玲子の腰を力任せに抱き寄せ、唇を過剰に尖らせた。息を止めて身構えていると、1秒間に3回のハイペースで小刻みに唇を重ねてくる。舌が入ってきたことはない。小鳥の囀りなら可愛いものだ。権堂の唇は、ボッテガ・ヴェネタのキーケースのように冷たい。玲子は何が気持ち良いのか、正直さっぱり理解できないでいた。しかし、これが社長室でのルーティンという代物なのだ。そんなとき、決まって玲子が握りしめるのはグンニーバの喉仏だった。玲子が「神(シン)」と呼ぶ骨片は、黒いジャケットの左ポケットの裏に縫い付けられた袋の中に、いつでも行儀良く鎮座していた。

 

それにしても――今日の社長は頗(すこぶ)る機嫌が良い。1時間後に催される一大イベントが成功裏に終われば、その功労者として葉山のパーティーに招待されるかもしれない。玲子はそんなことを想起しながら啄木鳥(きつつき)のキスに付き合った末、脹(ふくら)脛(はぎ)に力を入れて踵(きびす)を返すと、権堂に悟られないよう口角を上げてみせた。

 

「皆さん、今を輝いていますかー? 未来は今、今、今の積み重ねなんですよ。ねぇ、皆さん、今この瞬間を輝いてください!」

 

壇上に立った権堂は、マイクを左手で握ると、いつものように右手の拳を天に突き上げた。渋谷セルリアンタワーの宴会場には200人の満員御礼。権堂の声が会場に響くと「ゴンドー、ゴンドー」という掛け声と手拍子が巻き起こり、玲子は会場の温度が少し上昇したように感じた。その後、かれこれ50回は耳にした権堂の立身出世のストーリーが語られた。

 

「一部上場企業の社長で高校中退の人なんて、そうそういないよねぇ。僕はね、17歳でドロップアウトしたのね。僕ほどの落ちこぼれはいませんよ」

 

玲子は、その後の顛末を空で唱えることが出来る。関西地方の歓楽街でストリップ小屋を営む両親の間に生まれた権堂は中学高校と手の付けられない不良だったそうだ。17歳の頃、バイクで六甲山を爆走していたところ、後輩がガードレールに激突し、事故死した。それがきっかけで更生の道を辿るが、人生を変えたのは葬儀の帰りに電信柱に貼られた1枚の求人募集だったという。

 

「誰にでもできる簡単な仕事。でも、そこには人生を変える価値がある。平均給料40万以上――」

 

それは羽毛布団のドサ回り営業だった。地方の田舎町にプレハブ小屋を建て、1ヵ月間にわたりイベントを開催。老人相手に羽毛布団や宝石を売りさばき、わずか1年で200人の営業マンの中でトップの成績を収め、惜しまれつつ独立した。そのとき知り合った通信業界のドンに見出され、携帯電話の営業代行会社を設立。時代はブロードバンドの黎明期で、その波に乗ることで瞬く間に売上50億円規模の会社に急成長――それが権堂の語る物語だった。史上最年少の一部上場企業社長と持て囃(はや)された権堂は現在、若手起業家のための支援活動を展開し、「風雲リーダーズ」を組織している。

 

「皆さんね、まずは50センチ先を見てください。さぁ、何がありますか? 目の前には明日を左右するお客さんがいるかもしれない。あるいは、目の前には商売のヒントが転がっているかもしれない。そこに情熱を注がないと人間成長しないんよね。50センチ先、1メートル先でいいから情熱を持って挑戦してみてくださいよ。きっと夢はそこから始まるはずなのよね」

 

権堂が右手を振り上げるたび、20~30代の若手経営者たちが「おぅ! おぅ!」と歓喜の表情で雄叫びを上げる。

 

「僕は逃げない。僕は逃げないのよね。皆さんね、ヒーローであれ。その背中を次のヒーローが見つめている。極端な話ね、過去や未来なんかどうでも良いの。今ここで一番輝いていることが大事。未来は今の連続なんだから。今輝いていないと未来も真っ暗闇なのよ。皆さん、輝いてますか! ほーら、歯を見せて笑ってごらんよ」

 

権堂はガッツポーズで壇上を降りると、参加者ひとりひとりに顔を近づけ、「君、いま輝いてるな」「うん、その目が大切だよ」「いいね。情熱、感じるよ」などと口角泡を飛ばし、力一杯肩を叩いて回る。玲子は参加者各人の瞳を確認していった。どれもビードロのような一点の曇もない瞳であった。権堂が言葉を投げかけるたびに光を失っていくそれは、行き場もなく権堂の頭上の彼方に力なく蹌踉(よろ)めいていた。いや、それは拝跪(はいき)と言っても良かった。

 

(続く)