夜枕の絵本 Season 4 リーダーズ ③
性行為が終わり、玲子が権堂のインスタグラムを開くと、こんなコメントが投稿されていた。
〈ゲン兄、先程はありがとうございました! 私の心の師匠でございます。やはりゲン兄はビジネスをするにあたっての地政学的リスクがよく分かっていらっしゃる。さすが日本の影の宰相!〉
なんという手際の良さか。玲子はすかさず権堂の背中越しに語りかける。
「ねぇ社長、ゲン兄と地政学について語り合ったの?」
「チセイガク? なんだそりゃあ。小難しいこと言うなって。君はハートでモノを言わないと駄目よね」
「社長自身がインスタに書いたじゃない」
「それか。だってさぁ、ゲン兄がそう言ってたんだもん」
言うが早いか、権堂は一寸の無駄もない所作で宇奈月にLINEを送信する。
〈ゲン兄の老後の世話をするのは僕ですよ。ゲン兄、老後は権堂が独り占めしていいって約束してくださいよね♪〉
数分後、宇奈月のインスタグラムには日本中の宇奈月ファンに向け、「風雲リーダーズ」の写真が投稿された。若手経営者の渦の中にいる権堂は、その中央で歯を剥き出しにして、左手で宇奈月を抱き寄せ、小さな拳を突き上げている。顔面の上唇(じょうしん)拳筋(きょきん)は不自然に引き攣り、悲鳴を上げているように見える。
その写真に宇奈月はこんな〝金言〟を寄せていた。
〈血と汗と涙の匂いに酔いしれた圧倒的な夜会であった。権堂は、俺の老後の面倒を見てくれるらしい。地の底から這い上がった男、権堂実。やはり頼もしい我が息子なのである〉
財界で〝爺殺し〟と称される権堂は、元来の愛嬌と燻(いぶ)し銀の口八丁手八丁、荒削りなセルフプロデュース力を駆使し、目下、時の宰相と会食を共にするまでに成り上がっている。ここ数年は、宇奈月の人脈から導き出された至宝の人材を権堂グループの名誉職に次々招き入れ、月額200万円からの高額報酬で飼い慣らしていた。実際、野球界のレジェンドと言われる元プロ野球監督は権堂と青少年のスポーツ支援団体を立ち上げ、また大物女優を多数抱える芸能界のドンは、所属アイドルたちを権堂グループ会社が手掛ける電子書籍の表紙に送り込んでいた。だが、その多くの事業は日々巨額の赤字を量産するばかりであった。そんな脆弱な経営基盤を縁の下で支える一筋の光明が「風雲リーダーズ」だったのである。
時代は、折しも起業ブーム。〝カリスマ経営者〟の元には、迷える若手経営者たちが将来の羅針盤を得ようと殺到した。口を開けば「アントレプレナー」「ローンチ」「コミットメント」。権堂の足元には、その日覚えたビジネス用語を流暢に操る羊たちがわらわらと蝟集(いしゅう)し、やがて正会員は計1万人以上に膨れ上がった。日々の活動は、宇奈月をはじめとする著名経営者を招いた大規模な飲み会だけだが、彼らは月会費3万円をまるで投げ銭のように迷うことなく支払った。「風雲リーダーズ」は、月3億円以上の利益を生む集金ジェットエンジンと化しているのである。
もっとも、玲子がその社内事情を知ったのは入社後だった。20代半ばで税理士試験に合格した玲子は、顧客獲得のため同業他社の紹介で「風雲リーダーズ」の定例会に参加した。その日、二次会で泥酔した権堂と挨拶を交わした際、開口一番、こう言われたのである。
「君、なんか目が冷めてるよねぇ。私は全部知ってます、みたいな目よねぇ。スラっとしていてめちゃくちゃ綺麗だけどさぁ、君の目は僕の中では魚の眼って言うんだよー。そういう子ってね、時々いるんだよな」
玲子の心に引っかかったのは「時々いる」という文言だった。地元長崎で先輩と出来ちゃった婚、そして離婚を経験し、文字通り裸一貫で上京した玲子は、東京・渋谷の風俗店に入店するや、歴代指名ナンバー1として風俗業界で名を馳せた。人知れずその経歴を唯一無二と心に秘めていた玲子にとって、その家庭事情を何も知らない権堂の言葉は少なからず衝撃だった。「出産」「離婚」「風俗」「上京」というキーワードが織り成す艱難(かんなん)辛苦(しんく)は、当事者にしか分かるまい。
玲子は、風俗嬢として働いていた時分に性感ヘルス「プチキャット」で同僚だった桐谷(きりたに)未侑(みゆう)のことを思い出した。同じホストを取り合った挙げ句、未有は2人の幼子を部屋に残し、玲子が次に恋仲になった男と駆け落ちした。風俗嬢が起こした二児放置死事件が大々的にマスコミに取り上げられると、世間は好奇の目を向けた。玲子は第一級の取材対象者として日夜問わず週刊誌に追いかけられた。
玲子は、ふとこの3年間で自分自身が未有のことを深く考えることを避けてきたと思った。歌舞伎町の占い師に「あなたの人生、こうでしょう。わかりますよ」と言われるたび、「凄い、なんでわかるんですか」と目を輝かせていた未有は、いま刑務所で何を思うのか。
「いるんだよ。そういう子って――」
権堂はそう繰り返す。あんたは、どれだけの地獄を見てきたのか。
やがて玲子にはなぜか権堂の裸体を見たいという不可思議な欲求が膨れ上がった。パンツを脱がせば、単なる小便垂れではないか。それ以後、玲子は権堂の秘書として、愛人として身の回りの世話係に収まったのである。職場は玲子にとって一番の学び舎だった。社長室は、意外にも居心地が良かった。
玲子はフローリングに落ちた黒のストッキングを手に取り、権堂に背を向けた。
「あの女は許さないからねぇ。ゲン兄に消してもらおうかな。もう我慢できないよね」
玲子の尻を手繰り寄せた権堂の頬には、ファンデーションで汚れた涙が伝っている。玲子は権堂の手を払い除けると、ジャケットを羽織った。公称175センチの権堂は、身長170センチの玲子より、ずっと背が低い。
部屋を出て、タワーの車寄せに待機させていたタクシーに乗り込み、スマホを開く。
〈今週末はゲン兄とシークレットゲストの3人で恵比寿のQEDクラブ。今回のシークレットゲストは、大手レコード会社の会長。新たなビジネスに乞うご期待!〉
権堂のインスタグラムには、社長室から一望できる夜景とともに、そんな文言が並んでいた。何がシークレットだ。玲子はスマホをバッグに投げ入れた。西麻布交差点に差し掛かったとき、猛烈な雷雨が後部座席の窓ガラスを叩き、そのうち視界が渦になって音が消えた。 ジャケットの裏側を手で手繰ると、神(シン)がなくなっていることに気付いた。