イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 4 リーダーズ ④

パンツスーツの尻が社長室のソファの中央にすっぽりと埋もれた。玲子はA3用紙にプリントアウトした大量の紙の束に目を凝らした。「風雲リーダーズ」の会員から日々郵送されてくるプロフィール用紙は就活生の履歴書とは異なり、左半分がバストアップと全身の写真で構成され、右半分に学歴と職歴、最後に「権堂社長に一言」という項目がある。さらに女性に限り、身長とスリーサイズを記載する欄があった。

 

「人は外見で判断できるんよ」

 

権堂は入社以来、玲子に何度もそう口にした。巨大なクリップで留められた大量の紙を捲る指が、ふと止まった。1枚の写真に目が留まる。
「御手洗早苗 株式会社ヤッピービューティー代表取締役」
 写真の女性の胸は大きく隆起し、白色の上質なニットは滑らかな曲線を描き出している。
身長は玲子より10センチ以上は低い。その白肌は吸い付くようにきめ細かで、腰に据えられた手の甲には皺一つなく、爪の先端まで手入れが行き届いている。ぷっくりと丸みを帯びた桃色の唇からは嫌味のない笑みが溢れ、ゆる巻きの黒髪からは上質な花弁の匂いが漂ってきそうだ。玲子は、まるで50過ぎの成金男の〝好物〟を掻き集めたアンドロイドのようだと思った。きっと、この人形は男性を前にすると、乳房を揺らせてせらせらと笑うのだろう。

 

権堂のいつもの整髪料の匂いが漂ってきた。背後から写真を覗き込んで言う。 
「この子、見込みあるよねぇ。この子なら出資してもいいっていう知り合いが現れると思うんだけどね。今度、ゲン兄に紹介しようと思ってるのよ」
 権堂は玲子の首に背後から手を回し、酒臭い息を投げかけてくる。
「社長、この子ともうエッチしたでしょ」
権堂は他の女性と関係を持った翌日、やたらとスキンシップを取ってくるのが常だった。
「君、鋭いよねぇ。彼女だって苦労してるんだもん。最近、元警察官のおっさんと結婚したんだけど、あんまりうまくいってないみたいよね。彼女みたいな上昇志向のある子は役人の妻なんて務まらんよ。彼女の目に宿るのは情熱、そしてチャレンジ精神よぉ。彼女の会社は最先端のDNA技術を美容に活かそうっていう日本初の試みをやっていて――」

 

 玲子はふたたび彼女の写真を手に取り、女の乳房の部分を擦ってみた。その瞬間、アッと声を上げた。
「これ、松島早苗じゃん」
 玲子が権堂の腕を振り払うと、権堂は大袈裟に尻餅をついた。
「何、それ。君の知り合いなのぉ。聞いていないよねぇ、僕は」
二重顎になった権堂がいう。
「この子、中学の同級生なの。あれって何年前かな、ばびろん……」
そこまで口にし、玲子は口を噤んだ。権堂は「ばびろん」の音に反応せず、「昨日の早苗ちゃん、とても良かったのよね」と中指の背で股間を擦っている。玲子は心の中で地団駄を踏んだ。社長は「ばびろん玲子」のことを何も知らないのだ。同級生の早苗が私に憧れ、ある日、ばびろん玲子を名乗り、東京で一旗揚げるために作り上げた架空の物語を――。もしかしたら社長は、群衆に埋もれたビードロの中から一際高級な〝魚の眼〟を見出した気分なのではないか。

 

〈ばびろん玲子という港区在住女性の寄せ集めのような架空の人物がいるらしいのですが、彼女はなかなかで〉

 

カルティエのブレスレットの偽物を中国から仕入れ、ネットオークションで転売した容疑で逮捕された早苗は保釈後、そうツイッターで書き込んだのを最後にネット世界から姿を消した。それから約3年の歳月を経て、なぜ彼女は「風雲リーダーズ」に出入りするに至ったのか。
「君、あとは頼むよ。今日も早苗ちゃんとディナーに行かないといけないから」
玲子は「はいはい」と空返事をし、浮かれきった権堂のいかり肩を見送ると、すぐに身支度を整えた。ジャケットを羽織ると、柑橘系の整髪料の匂いが漂ってくる。玲子は急に汚らわしく感じ、両肩を手で払った。なんと馬鹿馬鹿しいことか。玲子は、権堂と早苗が同じ部屋でグンニーバの水槽を見つめ、肉粉を放り投げて笑い合っている風景を想像してみた。

 

エレベーターで社屋1階の駐車場に降りると、権堂の送迎車であるメルセデス・マイバッハが目に飛び込んできた。駐車場の隅にあるガラス張りの一角が送迎車の停車場所だった。天井には、殺風景な駐車場に不似合いなシャンデリアがひとつ吊るされ、価格2500万円の車体に透き通った光を落としている。運転席には元自衛隊の男性秘書が緊張の面持ちで正面を見据え、まさに動き出そうとしていた。車体がそろそろと真横を通り過ぎた瞬間、玲子は目を見開いた。後部座席の右側に姿勢良く座り、口に手を当てて微笑むのは、写真の女――早苗だった。彼女は身を捩ると、玲子のほうを見やった。まるで玲子の登場を待っていたかのように数秒間、視線を投げかける。シャンデリアに照らされた目の奥に冷えた灯りを湛えながら。

 

玲子が早苗と最後に会ったのは21歳の頃だった。中学校時代の同窓会が、地元・長崎で同級生がやっている鮨屋で催されたのだ。大学生だった早苗は、当時住んでいた福岡から赤い旧型のアルファロメオで登場した。中学時代、とびきり地味だった早苗は容姿がまるで変わっていた。とりわけ目尻に向かって何重にも跳ねるように施されたアイラインには、憧れと不安が圧縮されているように玲子は冷静に分析していた。
早苗、変わったな。いったい、あなたは何に憧れているの。
「早苗。これ何年前の? 旧型のアルファロメオって」

 

玲子が茶化すと、早苗は「年上の彼氏から借りただけ」と白状し、みるみる顔を赤らめた。それ以来、玲子は早苗のことなど頭の片隅にも存在しなかった。ばびろん玲子として世間を騒がせるまでは――。

 

桜丘の夕闇に消えていくマイバッハを見送りながら、玲子は早苗と視線が交錯した数秒間を脳内で繰り返し再生させた。だが、幾度思い起こしても、その洗練された容姿と所作に学生時代の面影はなかった。長く跳ねた不器用なアイラインは、そこになかった。その事実は、玲子を少なからず畏怖させた。私が風俗をやっていた頃、あなたはどんな生活をしていたの。私がホストにハマっていた頃、あなたはどんな男と付き合っていたの。そして、どんな絶望を味わえば、そんな目になれるの。
渋谷駅に向かう坂を下りながらバッグからスマホを取り出す。玲子は一度目を閉じ、早苗の映像を掻き消すと、手際良く片手でLINEを送信した。

 

〈宇奈月さん。明日、やっぱり行ってもよろしいでしょうか。なんだか、無性にワクワクしている自分がいることに気付いてしまったんです。柏木玲子〉