イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 4 リーダーズ ⑤

「ねぇ、宇奈月さん――」

「なーんだ君は」

宇奈月の唇まで約3センチ。抑揚の効いた裏声を聞いた玲子は面食らい、反射的に身体を仰け反らせた。性行為中に悶える権堂の高音が蘇り、玲子は権堂の秘密をまた一つ知ったようで可笑しくなった。権堂の口癖は、宇奈月のそれだったのだ。

「いい女を抱くのは簡単なんだよ。わかるか」と宇奈月。

「お金の香りですよね」

玲子は間髪を容れず答えたが、勿論それが正解とは微塵も思っていない。政財界のフィクサーであり、稀代の女たらしである宇奈月らしい回答に耳を傾けたかった。

「馬鹿野郎。正解はこうだ。大女優を電話1本で呼び出して、俺の隣に座らせる。そいつの前でターゲットの女を口説くんだ。『お前、俺と今晩付き合え。とんでもない夜になるぞ』って。大女優は隣にいるだけでいいんだ。どんな女もな、100%それで落ちるでな」

宇奈月の真っ白な肌が覆いかぶさってくる。玲子は宇奈月の大胸筋にきつく包まれた。腋の下から辛うじて息を吐いた瞬間、宇奈月は身体を少し浮かせ、玲子の腹を軸に180度回転した。玲子の顔面には忽ちアンモナイトのように蜷局(とぐろ)を巻いたペニスが重なり、ガーリックの臭いと共に顔を這った。

「俺はね、いつも女からこう言われるんだ。『こんなに面白い生き物は見たことがない』ってな。男、女、ゲイ、レズ、バイセクシュアル、そして宇奈月――そんな感じでな」

その言葉を最後に玲子は気を失った。

 

宇奈月の別荘、通称「葉山」。時刻は夕方6時半だった。高台から鐙摺港(あぶずりこう)にぷっくりと浮かぶ無人のボートを見下ろしながら、玲子は正午の風景を思い浮かべていた。

邸宅の玄関に辿り着いた玲子を待っていたのは、裸の上半身にビキニを穿いた宇奈月だった。オイッチニー、イッチニー、オイッチニー、イッチニー。やけに美白の大胸筋をピクつかせながら近づいてくる宇奈月は、現在売り出し中の長身モデル・七海(ななみ)を愛人にしていた。玄関の戸棚一面に彼女の写真集が山積みになっているではないか。

 

〈七海の美ボディは、人知を超えた圧倒的な才能を内包する。彼女は、まるで一抹の悲しさを含んだ、季節外れの低温の白波のような存在なのだ。あらゆる男たちは無謀な美しさという絶望を前にして、みずからの死をも意識するであろう 出版プロデューサー・宇奈月弦太朗〉

 

玲子は、毛筆で書かれた宇奈月の帯の文章の意味を理解できなかった。

もっとも、宇奈月が主催する「葉山パーティー」は、ファッション業界、出版業界や芸能界では知る人ぞ知る一大イベントである。宇奈月は旧知の芸能プロダクション幹部たちに、七海をはじめ身長170センチ以上の美女ばかりを調達させ、自慢の別荘で定期的にパーティーを開いていた。筋金入りのマゾヒストで知られる宇奈月にとって、ハイヒールで死ぬほど踏まれてみたいという私利私欲を満たす一大行事に違いなかったが、芸能プロダクションにとっても自社のタレントを派遣するメリットは絶大だった。なぜなら、宇奈月は民放各社の番組審議委員という重責を担うと共に、コンプライアンス委員メンバーとしてNHKにも厳然たる力を有し、大河ドラマのキャスティングに携わるまでの実力者なのである。

その日の宇奈月は下着姿になるよう玲子に促すと、潮風がたなびくフローリングに駄々っ子のように寝転がった。

「君、良い眺めだ。うーん。もう1回、うーん」

玲子のTバックを頭上に見上げた宇奈月は、ウンウンと呻(うめ)きながら大胸筋を桃色に染めている。その日、なぜか玲子以外の女性はいなかった。玲子が宇奈月に促されるがまま大陰唇の襞を広げながらその理由を問うと「だって、君は権堂の大切な女だ。俺も大事にしないといけないがな」と答えた。

「宇奈月さん、もうひとつ聞いていいですか」と玲子。

「なんだ君は」

予想通りの返答に玲子は嬉しくなり、さらに言葉を続けた。

「ねぇ。権堂社長は本当に有望なんですか」

宇奈月の大きなタラコ唇が玲子の恥部を一気に呑み込む。

「あいつは馬鹿者や……。悪い言い方だけど、あいつに何が出来るのか」

「……。どういうことですか」

「あれは金が詰まった貝や。大切に温めて口をパカッと開かせば、賑やかしにはなる。獺祭のごとく。ビジネスなんてそういうものなの。君も馬鹿なこと聞くなよ」

「権堂は馬鹿ですか?」

「愚問だよ。あんな中身のないビジネスをするのは愚の骨頂。でも、株価は別問題だから。良き息子に決まってるじゃないの。ただし――親の心、子知らずだ」

玲子にとって意外性はなかったが、それと同時に体内から急速にあらゆる熱量が冷めていくのを自覚した。玲子は、宇奈月ほどの大人物が権堂のような提灯持ちにコロッと騙されるはずがないと思っていた。だが、ビジネスの場とは、圧倒的な装飾を施した巨大な風呂敷が重宝される舞台なのかもしれない。宇奈月のピロートークを聞き、玲子は半ば納得した。

 

室内にはミシェル・ペトルチアーニが奏でるジャズピアノが流れていた。曲名は「Take the ‘A’ Train」。天才ピアニストの右手が鍵盤の上でスイングを奏で始めた頃、玲子は意を決してスマホを手にした。

「あら、久しぶりじゃない」

赤城静子の声を聞いた玲子は、背筋が伸びる思いがした。アドリブが終盤に差し掛かり、再びテーマに向けて助走を始める。玲子は静子に対し、静かに告げた。

「すべてが、うまくいきそうです」

静子から返ってきた言葉は、弾んだ声色のワンフレーズだった。

「あなたなら、すべてうまくいくわ。それと――」

静子の言葉を待っていた玲子にとって、その数秒間は重い沈黙に思えた。

「神(シン)を手放したそうね。あなた、やるじゃない」

いったい、権堂とばびろん玲子こと早苗は、何がどう違うのか。権堂と早苗はお似合いなのだ。権堂が注力する日々の膨大なSNSだって「風雲リーダーズ」だって、全ては権堂の自己演出の代物に違いない。

「あなた、その早苗って子のこと、本当は怖いんじゃない?」

静子が言葉を付け足す。

「いえ、違います。私はああいう世界から抜け出したいだけです」

「でも、早苗って子は復讐だったんじゃないの。あなたに対しての――」

「どういうことですか」

「権堂と付き合うことで、同級生のあなたに矢を向けようとした。私はそう思ってるわ。今のあなたにとってはどうでも良いことだけれど。所詮人間、人間のすることよね」

 

その日、玲子が出勤すると、権堂が仁王立ちで電話をかけていた。小刻みに震える手には、複数枚のA4用紙が握られている。それは週刊誌の発売前日に関係各所に配布される、いわゆる早刷りと呼ばれるものだった。

 

「東証一部上場ネクストリーダーズが運営する起業家支援組織『風雲リーダーズ』に不正な会計があったことが小誌の取材で分かった。内部資料によると、同社は今期36億円の事業収入を見込んでいるが、同社の権藤実社長はその一部の売上を除外し、同組織の女性会員が経営する美容関連企業に還元していた。その額は3億円に上る。また、同社関係者によると、権堂社長と女性会員は不倫関係にあったという――」

 

「テメー、この記事はなんなんだ。誰が喋ったんだよ。全員で探し出せよ! 地獄に引きずり落とすぞ。刑事と民事両方で訴えてやるからな!」

権堂は過呼吸気味に声を荒げ、玲子に向き直った。

「これ読んだか?」

「さっき秘書からPDFで送られてきたから。でも、社長、ひとついいですか」

「なんだ君は。味方なの? 敵なの?」

「どちらでもありません。これ、全部事実じゃないですか」

「なんだと。僕は君も訴えてやる。犯人は君かぁ。僕に弓を引く者は、全員訴えてやるからな。損害賠償、損害賠償! レコード会社との企画だって潰れたんだ」

玲子は「わざわざ」と大袈裟に首を振ると、ブラウスの襟を直した。玲子の視線は権堂の手首に向いた。右手首には数珠が巻かれ、十数の主珠の中央にある群青色に染められた親玉は、神(シン)そのものであった。

「なんだよ、この記事は! いくらかかってもいいから週刊誌を訴えろ! いいか、今すぐ弁護士を呼んで訴えろ!」

怒鳴り散らす権堂を尻目に、玲子は机上に置かれた早刷りを手にした。「〝リーダー〟の女」と題されたモノクログラビアページには、銀座の高級鮨屋のカウンターで撮影された権堂と早苗の姿が鮮明に映し出されていた。玲子は、早苗の右手首に権堂とお揃いの神(シン)の数珠が巻き付いているのを確認した。

「ねぇ、社長」

玲子がいう。権堂はそれには耳を貸さず、ひたすら独り言つ。犯人はお前か。いや、犯人は早苗か。まぁ、いい。いずれわかることだ。訴えるぞ、訴えるぞ。

玲子は早刷りを床に落とすと、一度脱いだジャケットを羽織り、社長室を後にするのだった。一階に駆け下り、鈍色に光るマイバッハを横目に「Take the ‘A’ Train」を口ずさんだ。