イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 5 フルフェイス ①

古びたレンガ造りの本館3階の階段を上ると、学生のアルバイト集団が忙しなく新聞記事のコピーを取っていた。第一出版局週刊誌編集部には正面に編集長、左右に4人の編集次長のデスクがあり、その配下に30余名の特派記者の作業机が雑然と並んでいる。

 

記者歴10年の中堅記者・庚申塚(かねづか)千尋(ちひろ)は、正面に座る編集長・鍋倉(なべくら)と目が合った。つくづく最悪な席の配置だ。机上にA3サイズの茶封筒が置かれている。すぐに鍋倉の目配せの意味がわかり、庚申塚の心臓の音は小刻みに波打った。逸(はや)る気持ちを抑え、封筒の中身を覗く。「訴状」と書かれたA4用紙の束がずっしりと重く手のひらを覆った。原告は「ネクストリーダーズ」。庚申塚が同社に関する特集記事を執筆したのは約3ヵ月前のことだ。

 

〈被告らは、原告株式会社ネクストリーダーズに対し、連帯して金3億4千万円の金員を支払え。訴訟費用は被告らの負担とする〉

 

庚申塚がそれを読み終わったタイミングで鍋倉の声が背中に刺さった。

 

「何暗い顔してんだよ。そんなの想定内だろ」

 

間髪容れず、狐目をした編集次長・神田(かんだ)が「6億円男がやってきたぞ」と脂臭い口を近づけ、庚申塚の肩を叩いた。その言葉の意味が即座に分かった自分自身が口惜しかった。

 

遡ること約1年半前――。庚申塚が担当したのは、1本の芸能記事だった。大手芸能事務所に所属していた人気女優が同社幹部のパワハラに耐えかね、事務所を独立したという移籍トラブルを女優自身に取材し、記事化したのだ。結果、庚申塚は元所属事務所から2億6千万円の損害賠償請求訴訟を提起され、今まさに係争中なのである。先日、庚申塚は2万字に及ぶ陳述書を裁判所に提出し、東京地裁の証言台に立った。庚申塚にとって、それは法廷デビューだったが、まな板の鯉と先輩記者たちから聞かされていた反対尋問の場は生易しいものではなく、文字通り針のむしろだった。

 

「あなたはさぁ、取材の甘さを認めようとしないけど、一体こんな捏造記事を書いて何か得をしたわけ!」

 

原告側の弁護士が机上を叩き付けた瞬間、今まで冷静を装っていた庚申塚はぷつんと切れた。

 

「損得考えてたらこんな仕事できねえよ。ふざけんな」

 

冷静さを欠いたことに気付いたのは帰宅後だった。いつもより脂ぎった頭髪を風呂場で流していると、百戦錬磨の鍋倉の言葉が静かに蘇ってきたのだ。

 

「名誉毀損裁判は事実認定の場なんかじゃなくて、時には人格否定の場なんだから。いかに説得力を持って真実相当性を主張するか。挑発に乗ったら負けなんだよ」

 

提訴後、何の取材をこなしていても頭の片隅には裁判という文字が絶えず浮かぶ日々を過ごした。それも先日の証人尋問で一区切り付いたはずだった。

 

ところが――今度は立て続けにネクストリーダーズから巨額の裁判を起こされてしまった。今回の3億4千万円と前回の2億6千万円、合わせて「6億円男」。冗談じゃねえぞ。俺を舐めやがって。庚申塚は威勢良くファイティングポーズを取ったが、その拍子にうず高く積み重なったハードカバーの新刊本の角に肘をぶつけ、全身に電気が走った。同時にその日発売されたばかりの週刊誌が頭上から数冊落ちてくる。

 

〈大阪ラブホテル火災 九死に一生を得たデリヘル嬢の告白〉

 

そう題された記事が目に留まった。それは庚申塚が先週担当した記事だった。

 

関西に出張した庚申塚は、煤の臭いが漂う国道沿いのラブホテルの前に佇みながら界隈の至るところに貼られているデリヘルの広告を目ざとく見つけた。捜査関係者への取材によると、死者15人のうち半数以上がデリヘル利用者だった。庚申塚は迷わず地元のデリヘル業者に電話をかけ、約1時間後、ソバージュヘアを靡(なび)かせた三段腹の50女を引き当てた。別のラブホテルの1室で記者の名刺を差し出すと、女は待ってましたとばかりに口を開いた。

 

「あの日な、火事が起こったのは朝方やろ。あたしはその3時間前の夜中2時頃までお客さんと一緒にあのホテルの部屋にいたんよ」

 

「泊まりじゃなくて休憩コースだったの?」

 

女は声のトーンを落とし、まるで怪談でも語るような口吻(こうふん)で話を続けた。

 

「それがちゃうねん。朝9時までのお泊まりコースやってん」

 

「なんで夜中2時に帰ったんだよ」

 

女はよくぞ聞いてくれたという表情で庚申塚の耳元に唇を近づけた。

 

「恥ずかしいねんけど、あたし、めちゃくちゃ濡れんねんて。そのときもお客さんに手マンされて大洪水起こしてもうて、これでもかってくらいシーツを濡らしてもうてん。お客さん、『こんな不快なシーツで一晩過ごせるかい』言うてな、怒って帰りよったわ。あたしもこんなところで寝たら身体冷えるやん。低血圧やねん。それで一緒に帰ってん」

 

「もしシーツが汚れていなかったら?」

 

「一緒に朝まで抱き合って寝たと思うわ。イケメンやってん。けど、確実に死んでたわ――」

 

庚申塚は、物は試しとばかりに女の陰部に中指を照らした。すると、女は途端に息を荒くし、まるで壊れた蛇口のように陰部から透明な液体をプシュと噴き出した。「だから言うたやろ、なぁ?」と女は上の空で呟いた。

 

あの日、あの時間――多くの人が死んでいる。しかし、なんという喜劇だ。週刊誌記者の仕事は、業の肯定である。庚申塚は生臭い潮騒の余韻が残るペニスをトランクスに押し込むと、そう自分自身に言い聞かせるしかなかった。

 

「おい、庚申塚よ。今日中に法務部と打ち合わせをしとけよな」

 

神田の声でふと我に返った。これから毎月、証人尋問までの約1年半は準備書面の洪水を浴び続けなければいけない。そんな考えが脳内で螺旋階段のように管を巻き、庚申塚の心を重く沈ませたのである。

 

(続く)