イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 5 フルフェイス ②

ドン・キホーテの入口に鬼頭沙也加(きとうさやか)のはにかんだ顔があった。かつて赤みと丸みを帯びていた頬は1年見ないうちに青白く幾分ほっそりと変容し、庚申塚は彼女に初めて大人びた印象を抱いた。彼女の身長は150センチに満たない。いかり肩の三角筋が隆起した柔道選手のような体軀をカジュアル系ギャルブランド「RODEO CROWNS」の黒色パーカーが包んでいる。金髪のショートカットは土鳩(どばと)の頭のような流線型のシルエットを描き、鋭利なえら骨と捲くりあげた左腕は彼女の生きてきた20年弱を想起させるのに充分だった。〝焼き〟の痕跡とともに左手の甲に刻まれたのは「川崎命」という文字のタトゥー。自作の歪(いびつ)な模様が庚申塚の記憶の尻尾を鷲摑みにし、強引に過去へと誘(いざな)っていった。

 

沙也加は庚申塚を照れた様子で見上げると、第一声をカマす。

 

「カネチ、どこ見てんだよ。久しぶりじゃん。お前、たまには寿司でも奢れよな」

 

沙也加は庚申塚を「カネチ」と呼ぶ。あの頃、ブレイクした人気若手芸人から拝借したものらしい。あの芸人が世に出たのは約3年前――日本中を悲しみと怒りに染めた川崎中1殺害事件が起こってから早3年が経とうとしているのか。あの頃の俺は名誉毀損裁判を抱えることもなく身綺麗だった。

 

庚申塚は我に返り、沙也加を見やった。

「沙也加、元気そうだな。少しは大人になった気がするし」

「相変わらずうるせえよ。お前、太ったな。マジでキモくなったよな」

 

思い起こせば、いつでも沙也加の挨拶は「うるせえ」「キモい」「うぜえ」だった。ドスの利いた声を聞き、ぐんぐんと時間が引き戻されていく。庚申塚は、目抜き通りの銀柳(ぎんりゅう)街を大股で歩く沙也加の背中を追いかけながら脳内で当時の取材メモを捲り、事件のあらましを反芻してみた――。

 

13歳の中学1年生リョウの遺体が多摩川の河川敷で見つかったのは、2月下旬のことである。その日、印刷工場が建ち並ぶ工業エリアの河川敷には、100人を超える記者とカメラマンが殺到した。だが、「報道陣」とは名ばかりで「被害者、結構可愛い子だよね」「親は浮かばれないよ」などとお茶の間の一般視聴者と同様の感想を呟き、彼らは真相解明という職務を放棄していた。事件の全容が見えない中、気温5度の寒空の下で手を合わせ、穏やかに流れる残酷な水面を見下ろすことしか出来なかったのである。神奈川県警が少年3人を殺人容疑で逮捕したのは、それから6日後のことだった。

 

殺害前日の夜、彼らにとっては何の変哲もない日常の時間が流れていた。その日、リョウの地元の先輩で18歳の龍太(りゅうた)、龍太の同級生の徳郎(とくろう)、そして彼らの1学年下でリョウが唯一心を許す先輩、慎太郎(しんたろう)の3人が集まり、徳郎の自宅近所の中華料理屋で酒を飲むことになった。彼らは不良少年として界隈の飲食店の間でも知られていた。未成年の入店禁止を貫く店が大半だったが、この中華料理屋はいわば黙認だった。各々レモンサワーを3杯ずつ飲んだ頃、全ての出来事のきっかけとなる発言が龍太の口から発せられた。

 

「リョウってさ、最近調子乗ってるじゃん。シメようぜ。今から呼べよ、すぐ呼べって」

 

それに応えたのが、いつでもリョウと連絡を取れる立場にある慎太郎だった。

 

「慎太郎さぁ、あいつに連絡してみろよ」

「ま、まぁ……」

「カラオケに行こうって言えば来るだろ。俺がいることは言うなよ」

「うん、わかった」

 

リョウは慎太郎を年上の遊び友達として慕っていた。逡巡した挙げ句、慎太郎は嫌な予感を抱きつつもリョウに〈遊ぼうよ。カラオケな〉とメールを送信。時刻は夜11時過ぎだったが、事情を知らない無邪気なリョウから〈了解、今から行く〉とすぐに返信がきた。子育てに追われる母親の目を盗み、川崎大師の参道沿いにあるアパートの一室をこっそり抜け出したリョウは自転車に跨り、一目散にカラオケボックスを目指した。大好きな先輩からの誘いだ。行かない理由などない。ところが、息を切らして到着したリョウを待っていたのは慎太郎だけではなく、鬼の形相で立ち尽くす龍太と無表情の徳郎だった。

 

「みんなで川、行くべ。お前、意味わかってんな」

 

そう2人に言われたリョウは、もちろん逆らえなかった。深夜の河川敷は、彼らにとって特別な場所だった。地元の不良が大人たちに邪魔されず、厳かな粛清を行う聖域。足元一面に暗闇が横たわり、草むらの先にある岸辺と川の境界線は、まるで見えない。防波堤の上に1つしかない街灯が、小さく畝(うね)る水面の一部を妖しく照らしている。

自転車を降りると、リョウはいきなり龍太から顔面に強烈な右ストレートを食らった。

 

「お前らもやれよ。ほら、こいつさ、調子乗ってるじゃん」

 

間髪容れず、うずくまったリョウの腹部に龍太の蹴り、続いて徳郎の蹴りが炸裂する。

 

「なぁ、そうだろ。なぁ。リョウ、調子乗ってるんだろ」

「ホント、ごめん……。でも、なんで、なんで」

 

リョウの口が微かに動いたとき、息を切らした徳郎が龍太にあるものを差し出した。

 

「ねえ。これ、あるよ」

 

龍太は一瞬混乱したが、それを受け取り、リョウに向き直った。

 

「いいから貸せよ!」

 

もう後戻りは出来なかった。刃渡り20センチのナイフを手にした龍太は、そのまま刃先をリョウの顎に向けると、右手に力を込めた。まるで湧き上がる恐怖を打ち消すかのように何度も何度も刃物を振り回し、しまいには自分の手首を傷つけた。自分自身に、そして仲間たちに慄(おのの)きながら。

 

「全部脱いでから泳げよ。今すぐ泳げ!」

 

龍太がリョウの衣類を剥ぎ取り、そう命じる。リョウは最後の力を振り絞るように砂利の転がる河川敷を這って進んだ。やがて砂利と身体が擦れる音が止み、暗黒からポチャンという虚しい音がリョウの居場所を知らせた。長い沈黙の後、川辺から10メートル先でリョウの表情が街頭に照らされてぽっかりと浮かび上がった。慎太郎はそれを見て、自分の手のひらをきつく抓(つね)り、顔を背けた。

 

リョウは漆黒の川面に頭を浮かばせては沈み、木片のように流されていった。その間、ナイフで傷つけられた身長156センチの身体を水温2度の水流が嫐(なぶ)り続ける。川縁から22.5メートル。絶望の中で慎太郎に一瞬笑みを見せたリョウは、ついに事切れた。川崎から600キロ離れた離島に生まれたリョウが両親の離婚を経て、母方の親族が住む神奈川県川崎市に腰を落ち着けたのは、彼が小学校高学年の頃。それからの18カ月は、リョウにとって人間関係の呪縛が織り成す地獄へと彷徨い降りる螺旋階段のような日々だった――。

 

(続く)