イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 5 フルフェイス ⑤

急な下り階段には、毛足の長い赤絨毯が地下1階まで伸びていた。左右に貼られたベニヤ板は深呼吸するだけで肩が触れるほど幅が狭い。庚申塚の腕時計は夕方6時ちょうどを指している。沙也加を歌舞伎町のバッティングセンターで降ろしてから約30分。彼女はおっぱいパブ、セクキャバ、アダルトビデオ鑑賞部屋など、歌舞伎町の性産業を象徴するような店が多数入居する雑居ビルの地下1階に吸い込まれていった。

 

庚申塚が「のぞき倶楽部キャット」と書かれたカーテンを目指し、階段を降り始める決断をするには相応の時間が必要だった。庚申塚は、その直前までビルの向かい側にあるたこ焼き屋でハイボールを3杯飲みながら沙也加に対し、積年の思いを巡らせていた。煮え立つような陽光を浴びた沙也加は、たしかに赤絨毯の下に沈んでいった。

 

恐る恐る店名をスマホで検索する。まるでインターネット黎明期に作られたような簡素なホームページには10人以上の女性の出勤表がアップされていた。

 

〈新人入荷 ピチピチの18歳、爆乳です〉

 

すぐに一人の女に目が留まった。下着姿で仁王立ちする金髪ショートカットの「美樹(みき)18歳」。彼女は右手で顔面を覆っているが、筋肉質の四肢は紛れもなく沙也加そのものだった。そこには、対峙した相手を威嚇するときの不機嫌そうに下がった口角はない。不自然に笑みを湛えた口元。分厚い唇に施された口紅は他の女性同様、商品化されたそれだった。庚申塚は沙也加のイメージと180度違う文言に目を背けた。

 

だが、酔いの回ってきた庚申塚の脳内に浮かんだ元来の好奇心は次第に肥大化していった。眼前に与えられた不可思議な事象をまるで依存症患者のように渇望する。それは性癖に近かった。記者を生業にしてからは取材者としての知的欲求という都合の良い大義名分を得たが、迸る(ほとばし)欲望は紛れもなく純度の高い淫らな感情が立脚点になっていた。

 

庚申塚は自問自答した。沙也加を女として見たことは一度もないと断言できるが、風俗嬢という〝記号〟を与えられた彼女を前にした自分自身は、そのとき何を思うのか。

 

すぐに現実的な壁が庚申塚の不埒な感情を跳ね返した。自分が沙也加の店を訪れたことを彼女が知ったとき「お前、死ねよ」の一言では済まないだろう。誰にも知られたくないであろう秘密を他人――しかも殺人事件を介して知り合った一人の記者に知られたという事実は、彼女を大いに傷つけるのではないか。

 

その懸念は店のシステムにより直ちに解消された。入店後、男性客は各々の個室に移動し、マジックミラーを通じて〝のぞき〟を行うという。女性側から男性客は見えないのだ。また、次々に登場する女たちの中から気に入った娘を指名して個室に誘い、3千円で手コキ、5千円で口淫のオプションを受けることもできるという。庚申塚は、沙也加が性的な接客をしている姿をまるで想像できなかった。彼女はいつものように「きしょいんだよ」と言いながら男に身を寄せるのだろうか。

 

手垢で汚れた群青色のカーテンを潜ると、さらに視界が狭く閉ざされた。あたり一面に漂う湿気が目に見えるようだ。この空間に不釣り合いなハードロックが低音で流れている。左右を簾(すだれ)で囲んだフロントに腰を丸めて座っていたのは、禿げ散らかしたロングヘアを細く束ねた男だった。男は庚申塚の姿を一瞥すると、実に退屈そうに立ち上がる。

 

「入場料2千円ね。盗撮行為は禁止だからスマホも全部預けて。違反したら罰金50万円になります」

 

男の薄い唇は「何度も同じこと言わせないで」とでも言いたげであった。庚申塚は取材者の視点で男の様子をしばし観察する。男の誘導で足を踏み入れたのは、五角形の舞台を囲むよう円形に配置された個室型の鑑賞ルームだった。膝を折らないと全身が収まらないほど狭く、各部屋はカーテンで仕切られていた。

 

舞台が暗転し、ノイズが消える。天井から舞台を目掛けて閃光が差し、室内に浮遊する塵を音もなく突き通す。すると、舞台中央に下着姿の女の全身が浮かび上がった。酷く痩せこけた40女が四方の客に見せびらかすように紫のブラジャーと紐製のTバックを脱ぎ、まるで恥じらいを見せずにM字型に股を開く。抑揚のある低めの喘ぎ声が延々とBGMで流れる中、女は下半身の中央をゆっくりと上下に掻き始めた。弛(たゆ)んだ皮膚は、まるで絵の具が剥がれかけた古い壁画のようだ。時折舌を左右に動かすなど挑発的な仕草を見せるが、片隅に置かれたファブリーズを見つめるその瞳には感情の欠片を探すことは出来なかった。

 

延々と続く読経(どきょう)のような喘ぎ声が時空間を歪ませる。

 

庚申塚は一度冷静になろうと目を閉じた。まるでパノプティコン型監獄のようではないか。それは18世紀のイギリス人哲学者ジェレミ・ベンサムが考案した監獄システムだが、その特質は建物の中央に位置する監視塔にある。その監視塔を囲い込むように円形に独居房が設置され、囚人全員が等しく全方位的な監視のもと、日々生活するのである。監視塔は全方位に光を放つ。そのため独居房からは看守の姿は見えない。だが、いま庚申塚がいる空間では逆のことが行われている。雑居房で胡座(あぐら)を組んだ男たちは、時計仕掛けの女囚人の一挙手一投足を延々監視することを余儀なくされているかのようだ。

 

さらに舞台が暗転し、十数秒の沈黙が訪れる。ふたたび監視塔に光が降り立つと、そこにはジョーカーを模したフルフェイスのベネチアンマスクを施した女が立ち尽くしていた。女は赤く染まった耳に髪の毛をかけると、棒立ちのまま下着を脱いでいく。一瞬、マスクの隙間から横顔が垣間見られた。別れたばかりの沙也加に違いなかった。「川崎命」と書かれた左手の甲には、真っ白いテーピングが巻いてある。

 

すぐに同様のBGMが大音量で鳴り響いた。沙也加は庚申塚のほうを向き直ると、真っ白な裸体を見せつけた。大きく張った上向きの乳房は見事なまでの円錐形を形作っている。庚申塚は、今まで見たこともないほど美しいと思った。しかし、彼女は一向に動こうとしない。全裸のまま微動だにせず、やがて深く溜息を吐くように肩を上下させた。庚申塚は、回転寿司屋のテーブルに突っ伏した沙也加の嗚咽を思い出した。BGMの合間に沙也加の慟哭が聞こえてくる気がして、庚申塚は両手で耳を塞ぎ、項垂れた。

 

その直後、今まで一切気配を感じなかった隣の個室から怒号が飛んだ。。

 

「引っ込んでいいぞー。もう交代しちゃってくれー」

 

艶戯(えんぎ)をしない沙也加に業を煮やしたのか、常連客が野次を飛ばしたのだ。それに呼応するかのように別の個室からも次々に罵声が飛ぶ。観衆のノイズは沙也加に届いたのか、彼女は不貞腐れたように頭を垂れ、両耳を燃えるように赤らめている。庚申塚は居ても立っても居られず、逃げるように個室を後にした。入店時には気付かなかったが、待合室を通り過ぎたとき、壁一面に盗撮行為をした〝囚人〟たちの顔写真が目に入った。記者の習性で記録を残しておこうと思い立ち、スラックスのポケットに手を伸ばしたが、スマホをフロントに預けていることを思い出した。

 

庚申塚はフロントの男に矢継ぎ早に質問してみた。

 

「なぜ、あの娘だけ顔を隠しているの?」

 

男は意外そうに庚申塚の顔を覗き込む。

 

「そんなのわかるでしょ」

 

「なんですか。教えて下さいよ」

 

「2つしか理由はないでしょ。身バレが怖いか、ブーちゃんか。両方の場合もあるけど。お兄さん、これ以上無粋なこと聞かないでね」

 

「ブーちゃんというのは、あまり顔が可愛くないとか?」

 

男は一呼吸置き、溜息と同時に声を出した。

 

「俺からは言いませんよ、そんなことは。でも、あの子、若いのよ。お兄さんだって若い子のほうが好きでしょ。今度指名しようよ」

 

その日を境にして、庚申塚は「のぞき倶楽部キャット」を定期的に訪れるようになっていった。「美樹」の出勤日は、ホームページを見れば一目瞭然である。庚申塚にとって全く予想外のことが日々起きていた。沙也加の艶戯は目まぐるしく変化を遂げていったのだ。大きな乳房を見せつけるように身を捻る姿は、明らかに男たちの視線を意識している。時には床に寝そべり恥部を指でなぞると、本気で感じているかのように息荒く口元を歪ませる。客からの野次が飛ぶことは、もうない。

 

庚申塚は、この空間の怪奇な非対称性に混乱するのだった。いったい、囚人はどちらなのだ。独居房にみずから迷い込み、監視塔で踊る裸婦を監視しているのは男たちだ。しかし、光を蓄えた裸身は、川底の砂石に息吹いた珪藻(けいそう)のように澎湃(ほうはい)として湧き上がる欲望をそのまま受け止める。庚申塚はベネチアンマスクの奥に隠された彼女の面貌(めんぼう)が見たくて仕方なかった。

 

沙也加は夕方から終電まで6時間弱の勤務を終えると、酔客で溢れる山手線に飛び乗るのが常だった。庚申塚はその後ろ姿を見届けながら想像を逞しくする。川崎駅に到着した頃には、彼女の顔は不良少女のそれに戻っているはずだ。川崎大師に連なる仲見世通りにある馴染みの弁当屋に立ち寄り、その日手にした僅かな給料で仲間たちの食料を買い込む。彼らが寝静まると密かに貯金額を数え、ひとりほくそ笑む。アルファードの頭金を支払える日を指折り数えているかもしれない。いつしか庚申塚の心には、〝その日〟を自身の目で見守り続けたいという渇望が芽生えるのだった。

 

(続く)