イントロダクション
目次
本編

INTRODUCTION ─

週刊誌の記者として事件現場を歩いてきました。
数多くの現場を経験しているうちに、自分はなぜ取材をしているのだろうという壁にぶち当たりました。
事件取材の意義について、新聞やテレビのお行儀のよい報道機関は「再犯・再発防止」と声高に叫ぶでしょう。
しかし、事件を報じることで、本当に犯罪を減らすことができるのでしょうか。それは取材者側の自分勝手な建前にすぎません。
私が取材する理由を問われたら、迷うことなくこう答えます。
〝人に対する興味(他人への好奇心)〟だと。人はどんなに綺麗に着飾っていようと、時に愚かで、時に醜い。だからこそ、愛おしくもあるのです。
事件記者の仕事とは、そうした人間たちの欲望を丸裸にして受け止める仕事です。
取材をするたびに思うことは「あの瞬間、この人にもし守るべき人がいれば……」「誰かにこんな言葉を掛けられていたら……」ということでした。
こんな些細なことで、もしかしたらその事件は起こらなかったのかもしれません。逆に言えば、成り行きによって、誰でも犯罪者になりうるということです。
そこから私は「人の人生を左右するのは、案外、日常生活の中の何気ないピロートークだったりするのかもしれない」ということに思い至りました。
事件前、容疑者はベッドで何を語ったのか――。
ところが、そうした密室の会話は刑事裁判ですら、明らかになることはありません。その余白を埋めるのが、小説の役割なのかもしれません。
「夜枕物語」は、実際の事件をヒントにしたフィクションです。
これから読者の皆さまは、事件当事者の人生を辿ります。
「こんな人がいるんだ」
「こんな人生があるんだ」
たくさんの事件の〝真相〟を知ることによって、それぞれの物語の登場人物に愛おしさを覚えてもらえたら、明日からの日常生活でもちょっとだけ他人に優しくなれるかもしれません。

CONTENTS ─

夜枕の絵本 Season 5 フルフェイス ⑦

「とっておきの話がありますから。たまには遊びに来てくださいませ」

 

ネクストリーダーズの不正疑惑に関する記事によって、庚申塚が同社から3億4千万円の損害賠償請求訴訟を起こされたことに負い目を感じているのか、赤城静子の声はいつも以上に丁寧で丸みを帯びていた。もとを正せば同記事は、庚申塚の旧知の取材協力者(ネタモト)である静子が売り込んできたものだった。静子から紹介を受けた同社社長秘書である柏木玲子に丹念な取材を行い、それを元に記事を掲載したのである。取材源秘匿の徹底を至上命題に置く庚申塚は、記事の情報源について同僚記者はもちろん、鍋倉や神田など編集幹部にも一切開示することはない。

 

その日、静子に招かれた新居は、多摩川を見下ろす超高層マンションの最上階にあった。夕暮れ時、多摩川の対岸には川崎河港水門に沈む夕日が映えていた。それは高さ20メートルほどの監視塔らしき四角柱型建造物で、天辺にはライオンの頭のようなオブジェが飾られている。庚申塚は後になり、川崎の名産物である梨、ブドウ、桃などをモチーフとしたものだと知った。リョウが息絶えた日、そのオブジェは一部始終を見守っていたはずだ。

 

庚申塚が〝とっておきの話〟の意味を理解したのは、ひとしきり静子と雑談を交わした後のことだった。ダンベルを抱えてやってきた男の姿に庚申塚は我を忘れた。政財界のフィクサーを自任する宇奈月弦太朗だったのだ。

 

静子は見せつけるかのように宇奈月の頭を撫で回し、庚申塚に向き直っていう。

 

「この人と知り合ったのは玲子の紹介なのよ。本当に良くしていただいているわ」

 

タンクトップ姿の宇奈月はソファに大股開きで腰を下ろすと「あぁ、例の記者は君か」と大胸筋を突き出しながら言った。静子に絆(ほだ)されているのか、庚申塚に終始、好意的な視線を送っている。

 

「ネクストリーダーズの権堂だって君に感服しとるよ。まぁ、話題になるうちが華だ。あいつも君に感謝したほうがいい。ところで、裁判はどんな具合かね」

 

「訴状は受け取っています」

 

宇奈月は満足そうに首肯する。

 

そうか。まぁ、大人の喧嘩は楽しまないと。圧倒的に楽しんだ者が、最後は勝つ」

 

庚申塚は、なぜか懐かしい日常に舞い戻った気がした。沙也加を見つめ続けてきた数ヵ月間、俺はどうかしていた。〝切った張った〟の世界で生きるとは、こういう奇想天外な出来事の連続に身を置くことなのだ。

 

「都内の喧騒から離れたこの空間は、実にいい」

 

庚申塚は工場群の夜景に目を細め、調子を合わせる。

 

「あまりに綺麗で、宙に浮いているような不思議な感覚になりますね」

 

「2週間前だったな。河川敷の向こう岸で、季節外れの花火が上がったんだ。大きな花綸がパッと花開いた。冬の花火は実にいい。君も覚えておけ。花火は上から眺めるものだ」

 

宇奈月は木箱に入ったシャトー・マルゴーのコルクを捻って言う。現政権の批判を皮切りに、官邸官僚の不祥事について語り尽くすと「まだまだあるぞ」と鼻の穴を開いた。

 

宇奈月は帰り際、庚申塚の肩を叩いた。最高級ワインで酩酊した庚申塚は夢見心地だった。タクシーに乗り込み、スマホを取り出す。いつもの慣習でニュースページを開いた庚申塚は、飛び込んできた記事に目を疑った。

 

〈昨夜未明、川崎市川崎区の多摩川の河川敷で飲食店に勤務する18歳の少女が背後から何者かに襲われ、顔や胸など複数箇所を殴られ、重傷を負った。神奈川県警は現場付近の防犯カメラの解析を進めるなどして容疑者の割り出しを進めている〉

 

庚申塚のLINEには、常に都道府県警の記者クラブに所属する社会部記者から「当局メモ」が送られてくる。その日、神奈川県警担当の記者から送られてきたのは、庚申塚の直感の正しさを証明するものだった。

 

〈被害者/高城夏美 勤務先/歌舞伎町のキャバクラ「X」 被害者自宅/川崎市川崎区 犯行状況/犯行に使われた乗り物はスクーター。背後からハンマーやバール様のもので殴打 被疑者の人相着衣/被害者の供述によると、若い女性。フルフェイスのヘルメット着用〉

 

思えば、不吉な予感はあった。追悼の儀式が催された翌日、「のぞき倶楽部キャット」のプロフィールから「美樹」の名前が消えたのだ。庚申塚はすぐに沙也加に電話をかけたが、留守電になるばかりで一向に繋がらない。

 

庚申塚は不思議に思った。もしも沙也加が犯人だったとしたら顔を隠すだろうか。いや、沙也加がみずからの信念で襲撃したとすると因縁をつけた末に完膚(かんぷ)なきまでにやっつけるだろう。もはや居ても立っても居られない。庚申塚はタクシーに行き先変更を告げ、多摩川の河川敷に急いだ。

 

いきおい多摩川の土手に駆け上がる。寒風が吹き荒れ、水門に当たった濁流が飛沫(しぶき)を上げる。震える指で腕を捲り、腕時計に目を落とす。

 

2月20日午前2時5分。リョウの3回目の命日が訪れていた。

 

(続く)